GBP/USD、日本の円や米国のドルなど、世界各国・地域では様々な通貨が使用されており、それらを交換する場所が外国為替市場です。
株式市場と違って、外国為替市場には取引所のような特定の場所や建物があるわけではなく、為替取引は、各々の市場参加者が電話や電子端末を通して通貨の売買を行います。
これらのネットワーク全体が外国為替市場ということになります。
取引は当事者間の合意があれば成立するため、時間の制約を受けません。
したがって、外国為替市場は24時間取引の市場であると言えます。
外国為替市場は特定の場所にあるわけではない
世界最大の金融市場である外国為替市場ですが、どのような参加者によって取引されているのでしょうか。
メインとなるのは銀行等です。
銀行等は個人や企業などの顧客の需要に対し、外国為替業務を行っています。顧客との為替取引によって生じた通貨の余剰や不足は、銀行等の間で売買し調節されます。
また、銀行等は自らの利益を求めて為替取引を行うこともあります。
銀行等が互いに行う取引はインターバンク取引と呼ばれ、その市場をインターバンク市場と言います。
インターバンク市場の参加者には、銀行等の他に、取引を仲介するブローカーや為替介入を実施する中央銀行などが含まれます。
銀行等の顧客も市場参加者となります。顧客の中には、貿易を行う企業、機関投資家、ヘッジファンド、金融機関、そして両替や外貨預金を行う個人も含まれます。
銀行等が顧客と行う取引は対顧客取引と呼ばれ、その市場を対顧客市場と言います。
ある調査によると、銀行等が行う取引において、インターバンク取引が55%で対顧客取引は45%となっており、対顧客取引の中においては、金融機関顧客との取引が多くなっています。
拡大する電子取引
為替取引においては、電子取引が半分以上を占めています。
銀行等が行う為替取引額のうち55%は電子プラットフォームなどを使用した取引となっています。
電子取引は銀行等のマーケットメイクを中心に拡大しました。
それまでの銀行のマーケットメイクは、市場実勢、取引金額、自らの相場観など様々な要素を勘案しながらトレーダーがレートを提示していました。
これらは電話などを使って情報が伝達されていました。
一方、電子プラットフォームにおいては、事前にプログラムされたアルゴリズムに基づき市場情報を瞬時に勘案しマーケットメイクします。
銀行等にとって、電子プラットフォームの構築には多額の設備投資が必要で、顧客にとっても、決済の自動化などにおいてシステム対応が必要です。
電子プラットフォーム構築で後発組の銀行等にとって、電子取引は参入障壁が高いものとなっており、この結果銀行の為替取引は寡占化が進みました。
人工知能の台頭
ここ数年は、いわゆるビックデータなどを活用した人工知能によるマーケットメイクが現れています。
これは、メディアなどに掲載される言葉や電子ブローキングシステムにあるオーダー状況などについて過去の値動きとの相関性などを瞬時に分析し、プライスに反映させるというものです。
この分析には「ディープラーニング(深層学習)」という機能が使われていることもあり、これはAIが自ら学び進化していくことが特徴です。
この分野で台頭してきたのが、ノンバンク・マーケットメイカー(Non-Bank MarketMaker)で、AIのテクノロジーによって彼らは外国為替市場に大きなプレゼンスを持つようになります。
昔は外国為替市場のマーケットメイクと言えば銀行等の独壇場だったので、多額の資本を持つ銀行は、売り買いいずれの方向であっても取引先の求めに応じ、市場に流動性を供給していました。
銀行等は、マーケットメイクによって生じたポジションが不利な方向に動いた場合でも、他の取引で相殺することができ、それができない場合でも、大きな資本力を背景にマーケットメイクを継続することが可能だったのです。
しかし現在ではノンバンク・マーケットメイカーはAIを駆使して取引を行い、短い時間でしかポジションを持ちません。
そして決済に関しても、2営業日以内に決済が行われるスポット取引に特化しているところが増えてきているので、AIを駆使するノンバンク・マーケットメイカーのプレゼンスがさらに高まってきそうですね。
1日の為替取引は世界で5兆米ドル
「世界最大の外国為替市場はロンドン市場で、その規模は東京市場の約6倍」という言い方がされることがあります。
では、ロンドン市場や東京市場というように、地域ごとの外国為替市場はどのような分け方がなされているのでしょうか。
明確な定義はありませんが、おおむね2つの考え方があります。
1つは、市場参加者の居場所です。
この場合、日本にある輸出企業が日本の銀行と米ドル売り円買いの為替取引を行ったら、それは東京市場での取引とみなされます。
ただし、京都にある企業が為替取引を行っても、それは「京都市場で取引された」とは言いません。
日本における取引はまとめて東京市場での取引とみなされます。
これは他の国でも同じことで、英国での取引はロンドン市場、米国はニューヨーク市場としてみなされます。
もう1つは時間帯で、日本時間の午前5時~午前8時をシドニー市場、午前8時~午後5時を東京市場、午後5時~午後10時をロンドン市場、午後10時~翌日午前5時をニューヨーク市場、とみなします。
この考え方は銀行等が社内における管理の便宜上設定している場合が多く、組織により設定時間が異なります。
この場合、日本の投資信託会社が深夜に日本の銀行等と取引を行った場合、それはニューヨーク市場で取引を行ったとみなされます。
実は、東京市場とかロンドン市場とか外国為替市場を区分けして名前をつける傾向は、日本以外ではあまり見られません。
市場参加者の居場所を基準にする場合、東京にある銀行とロンドンにある銀行が取引すれば、それは東京、ロンドンどちらの市場での取引とみなすのか、という問題があります。
時間帯を基準にする場合、日本の組織同士の取引を、深夜だからといってニューヨーク市場の取引とするのは違和感が残ります。
そもそも国境を越えて24時間なされる外国為替取引を、場所で区分する考え方はそぐわないのかもしれません。
市場の規模
「グローバルな為替取引は1日に5兆ドル」という表現がメディアなどでされることがありますが、取引額における国ごとの内訳で見ると、英国の割合が多く37%で、次に米国の20%、その後シンガポール8%、香港7%、日本は5番目の6%です。
英国の比率が高いのは、欧州だけではなくアジア、中東、そして米国の市場参加者が取引できる時間帯にあるという地理的な優位性に加えて、世界一の金融街であるロンドン・シティを有していることが要因でしょう。
しかし、英国はEU離脱を決めており、今後は金融市場におけるロンドン・シティの魅力は低下するものと見られ、外国為替市場における英国の優位性も薄らいでくるかもしれませんね。
かつてロンドン、ニューヨーク、東京が外国為替の3大市場と呼ばれていましたが、しかし近年に取引額において、日本は2013年の調査でシンガポールに抜かれ、2016年には香港にも抜かれてしまいました。
背景には、日本経済の相対的なプレゼンスの低下と金融市場としての優位性がシンガポール、香港において高まっていることが挙げられます。
為替の動きを観察しよう!
為替の動きを見るには、円を中心にするのではなく、どの通貨が中心となって動いたかを意識して見ることが重要です。
為替レートは複数の異なる通貨を交換するときの交換比率です。
言い換えれば通貨の取引価格で、よくニュースなどで「本日の円相場は1ドル=115円です」と報じられることがありますが、これは外国為替の銀行間(インターバンク)市場において、1米ドルが115円と交換されているということを意味します。
インターバンク市場では米ドルと円以外にも様々な通貨の取引がなされています。
それぞれの通貨はアルファベット3文字の通貨コードで示されており、米ドルはUSD、日本円はJPY、英ポンドはGBPと表示されています。
これらは最初の2文字を国名コード、3文字目を通貨のイニシャルとすることが原則となっているから、このような通称になっているのです。
通貨コードを使用した為替レートの表示は、USD/JPY=115・00、GBP/USD=1・2500という形式でなされているのですが、ではなぜ「は、どうしてGBP/USDはその逆のUSD/GBP=0・8000という形で表示しないだろう」と思うかもしれませんが、明確な理由はなく、市場の取引慣行で決まっていたりするんですね。
基本的には、基軸通貨であるUSDが前に表示されるのですが、EUR、GBP、AUDは例外となっています。
USDが前に来る表示方法をコンチネンタル・ターム、逆にUSDが後に来る表示方法をニューヨーク・タームと言います。
主な通貨の序列は以下の通りです。
EUR>GBP>AUD>USD>CAD>CHF>JPY
しかしこれらはあくまで慣行なので今後変わる可能性もあります。
インターバンク市場においては、多くの通貨が基軸通貨である米ドルを通して取引され、カナダ・ドル/円のレートを計算するときは、インターバンク市場における米ドル/円のレートを米ドル/カナダ・ドルで割り算します。
例えば、1米ドル=117・00円、1カナダ・ドル=1・3450米ドルであった場合は、カナダ・ドル/円のレートは1カナダ・ドル=86・9888(117・00÷1・3450)となります。
ここで注意が必要なのはニューヨーク・タームの通貨で、豪ドル/円のレートを計算するときは、インターバンク市場における米ドル/円のレートと豪ドル/米ドルのレートを掛け算して計算します。
そうすると1米ドル=117・00円、1豪ドル=0・7200米ドルであった場合、豪ドル/円のレートは1豪ドル=84・24(117・00×0・7200)となると思います。
これらカナダ・ドル/円や豪ドル/円のように、米ドルを含まない通貨ペアのレートをクロスレートと言います。
円安?ドル高?どちらが正しいのか
「FRB利上げ後に1週間で円相場は115円台から117円台へと下落」
このような経済ニュースを耳にしたことはありませんか?
このレートは115円から117円へと値上がりしているのになぜ「下落」と表現されているのか、違和感がありますか?
しかし違和感があっても、この表現が間違っているわけではありません。
先ほど為替レートは異なる通貨が交換されるときの交換比率であるというお話はしたと思いますが、このことは、為替レートにおいては、1つの通貨の価値が上昇すると、もう1つの通貨の価値が相対的に下落することを意味します。
米ドル/円レートにおいて、115円から117円となることは、米ドルの上昇と円の下落が両方起きています。
したがって、円に焦点を当てれば下落しているので「円安」と表現することは間違いではありません。
新聞やテレビのニュースなどの日本国内のメディアは、ほとんどの読者や視聴者が日本人であるため、自国通貨である円を基準にその価値が上がった/下がったと表現して報道する傾向があります。
ところが為替のプロは、FRB利上げ後の為替相場の動きを「円安」と表現することはありませんし、逆に「米ドル高」と表現します。
なぜでしょうか。
この理由を知るためには、米ドルや円だけではなく、他の通貨の動きも見る必要があります。
例えば次のようなケースを考えてみます。
・FRBが利上げを決める前日のレートと、1週間後を比べてみて、米ドルは対円、対ユーロ双方に対して上昇している。
・円は対米ドルでは下落しているものの、対ユーロでは上昇している。
このようなケースですと、FRB利上げ以降の相場で中心となったのは米ドル高です。
米ドル高の結果として、円は対米ドルで円安となりました。
円は対ユーロでは円高となっているので、一連の動きを「円安」と表現すると誤解を招く可能性があります。
したがって、為替のプロはこの相場を「米ドル高」の相場であると表現するのです。
外貨取引を行うにあたっては、円を基準として見るのではなく、どの通貨が中心となって動いているのかということを意識することが重要です。
通貨の実力を表す実質実効為替レート
外国為替市場では様々な通貨が取引されています。
米ドル/円が上昇しているのにユーロ/円が下落していたりすることはしばしばあり、通貨が全体として強くなっているのか弱くなっているのかがわかりにくいことがあります。
実効為替レートは、特定の2通貨間の為替レートを見ているだけではわからない、相対的な通貨の騰落を測るための総合的な指標ですが、実効為替レートは、国・地域ごとの貿易額などをウエイト付けして算出します。
ただし、「通貨の総合的な強弱」を測るという観点から考えると、これだけでは十分ではありません。
例えば、日本の物価上昇がゼロで、他国の物価上昇が+5%であった場合、名目の為替レートが不変であったとしても、日本の円の購買力が相対的に見て高まっていることになります。
このような物価上昇の要素を勘案したものが、実質実効為替レートです。
実質実効為替レートを使用すると、通貨の強弱を総合的に判断することができます。
実質実効為替レートは、国際通貨基金や経済協力開発機構など多くの機関が作成していますが、円については日本銀行が公表しているものがよく使われます。
日本銀行はBISが採用している計算方法に基づき、60以上の国・地域のデータを使用しています。
2015年6月に米ドル/円が125円台をつけたとき、黒田東彦・日銀総裁が衆議院財務金融委員会で、「実質実効為替レートで見ますと、今はかなりの円安の水準になっているということは事実」「一般的、理論的に申し上げますと、実質実効為替レートがここまで来ているということは、ここからさらに実質実効為替レートが円安に振れていくということは、普通考えると、なかなかありそうにない」とコメントしたことで注目が高まったことは記憶に新しいです。
そのあと円はどんどん買われ、円の実効為替レートは上昇、米ドル/円は下落しました。
為替相場は複合的な要因で動くため、黒田総裁のコメントだけが原因で円相場が反発したわけではありませんが、しかし、タイミングを得た通貨当局者のコメントは相場に影響を与え、これはのちに黒田砲と呼ばれるような大惨事(?) になりました (ショートしていた私にとってはですが笑) 。
歴史と歩む!バブル経済を作った1985年のプラザ合意
ここでは戦後の外国為替の歴史、特に米ドル/円の歴史に焦点をあててみましょう。
相場は繰り返すとあるように、現在の相場に対峙し未来に向けた資産運用を考えるとき、歴史は重要な羅針盤となります。
ブレトン・ウッズ体制
第2次世界大戦終戦が近づいた1944年7月、米ニューハンプシャー州ブレトンウッズで連合国44カ国の代表が集まり、大戦後の経済復興と国際通貨体制の安定に向けた会議が開催されました。
それまでの金本位制と英ポンドを中心とする旧体制は2つの世界大戦を通して機能しなくなっていたため、新しい体制の構築が必要だったのです。
会議では参加国が自国通貨の対米ドルレートを固定し、米国は1オンス=35米ドルのレートで他国政府からの米ドルと金の交換に応じるという「金・ドル本位制」が決められました。
同時に国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行が設立され(IBRD)、IMFは短期的な対外収支赤字国に対して融資を提供し、IBRDはインフラ整備など戦後復興の長期資金融資を行うことを目的としていました。
会議で決められた「金・ドル本位制」とそれを支えるIMF、IBRDの体制を「ブレトン・ウッズ体制」と呼びます。
戦後の日本においては、1947年より民間貿易が再開されましたが、経済統制のもと商品ごとにレートが異なる複数レートを使用しており、1949年に「ドッジ・ライン」と呼ばれる経済安定化政策の一環として1米ドル=360円の単一レートが設定されました。
その後、1952年7月に東京外国為替市場がスタートし、同年8月に日本はIMFとIBRDに加盟しました。
ニクソン・ショック
1971年8月15日、当時のニクソン米大統領は議会の承認を得ずに米ドルと金の交換の停止を発表しました。
これは、西欧や日本の経済復興による輸出の拡大により米国の米ドル支払いが増加し、結果として外国が保有する米ドルの総計が米財務省の金保有額を超える状況となっていたことが主な背景です。
突然の発表は「ニクソン・ショック」と呼ばれており、市場では主要通貨に対する米ドル売りが殺到しました。
事態を収拾するために同年12月に主要10カ国蔵相会議が開催され、金の価格を1オンス=38米ドルに引き上げることが決められました。
同時に、各国通貨の切り上げによる新しい固定相場制が合意され、円は1米ドル=360円から308円へと切り上げられ、この合意は会議が行われた場所(ワシントンのスミソニアン博物館)から「スミソニアン合意」または「スミソニアン協定」と呼ばれています。
1973年に再び米ドル売り圧力が高まったことを受けて、先進各国は固定相場制を放棄し変動相場制を採用することになり、ブレトン・ウッズ体制は終了しました。
日本も2月14日から変動相場制に移行し、移行初日の米ドル/円レートは271円でしたが、その後約1カ月の間に250円台まで下落しています。
その後の米ドル/円は300円台を回復することもありましたが、2度の石油危機などから米ドルは不安定化し、1978年には177円台となる場面もあったのです。
日本にとってよくも悪くもプラザ合意
米国は1981年にレーガン大統領が就任すると、経済政策「レーガノミクス」のもと「強いドル政策」を推進しました。
当時米国はスタグフレーションに陥っていて、インフレ阻止を標榜していたボルカーFRB議長は強い金融引き締め政策を断行しており、政策金利であるフェデラル・ファンド金利は20%となっていったのです。
高金利による米ドル資産への需要の高まりから米ドルは大きく買われており、1982年11月には米ドル/円が278円台まで上昇する事態になり、この事態をレーガン大統領は「強いドルは強い米国の象徴である」として容認していました。
しかし「双子の赤字」が顕著となって米国景気が急減速するに至り、製造業などが議会と結びつきレーガン政権に通貨政策の変更を強く迫ったのです。
そこで1985年9月22日日曜日、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁(G5)が秘密裏にニューヨークのプラザホテルに集まり、米ドル高の修正について話し合い「米ドル以外の主要通貨の秩序ある上昇」が合意され、その日のうちに発表されたこの合意を「プラザ合意」と呼んでいます。
「プラザ合意」後の約1カ月間において、主要国は外国為替市場で合計で102億米ドルを売る為替介入を実施しまし、合意前の米ドル/円レートは1米ドル=240円台だったのに対し、その後1985年末には200円台、1987年1月には150円台をつけるに至ったのです。
想定外の米ドル急落に対して、先進7カ国は1987年2月にパリのルーブル宮殿で蔵相会議を開催し、米ドル安阻止のための協調介入などで対応するという合意に達しました。これは会議の場所にちなんで「ルーブル合意」と呼ばれています。
しかしながら、この合意の効果は長続きせず、同年10月19日の「ブラックマンデー」と呼ばれるニューヨーク株式市場の暴落なども要因となり、米ドルはさらに売られ、同年12月には1米ドル=121円台となりました。
「プラザ合意」が日本の経済に与えた影響は、本当に極めて大きかったと思います。
まず急激な為替レートの変動により輸出産業が打撃を受け、いわゆる「円高不況」が発生。
これに対し、政府・日銀は財政出動や金融緩和で景気を回復させようと、公定歩合を引き下げますが、この対策が思うようにかみ合わず、1980年代後半の「バブル経済」が発生します。
そしてまた日銀が公定歩合を引き上げし、1990年代に「バブル経済」が崩壊するのです。
公定歩合の引き下げで始まり、引き下げで終わったバブル経済の後は、いわゆる「失われた20年」と呼ばれる長期の停滞に陥ったのです。
円高誘導から強いドル政策へ
1990年代前半は、ソビエト連邦が崩壊し冷戦が終結したにもかかわらず、米国経済が減速しました。
この時期は貯蓄金融機関(S&L)の破綻が相次ぎ、米国は金融危機に直面しました。
このような状況下、1993年に就任したとクリントン大統領とベンツェン財務長官は日米貿易不均衡是正が米経済回復手段の1つと考え、円高誘導ともとれる発言を繰り返しました。
このような環境下、米ドルは売られ続けました。
1995年1月に起こった阪神・淡路大震災の後では、日本の保険会社が保険金支払いのために海外に投資した資産を円に買い戻す動きが出るとの思惑が高まり、円高が加速、同年4月19日に米ドル/円は79・75円の安値をつけています。
その後、1995年に就任したルービン財務長官はそれまでの通貨政策を方向転換し、「強いドル政策」を推進しました。
これは、強い通貨は健全な経済の成長を反映しているとの考え方が前提にありますが、海外投資家による米国債購入をうながす目的もありました。この考え方がその後、歴代の財務長官に引き継がれています。
「強いドル政策」を受け米ドルは反発、1990年代後半はヘッジファンドによるキャリー・トレードや日本の個人を中心とする外貨資産投資ブームなどもあり、米ドル/円は1998年8月に147円台まで上昇しました。
日本版金融ビッグバン以降
1998年4月、改正外為法の施行という大きな動きがありました。
日本版金融ビッグバンの先駆けとして外国為替取引が自由化されたのです。
それまで外国為替業務は為銀と呼ばれる外国為替公認銀行に限定されていましたが、この法律の施行により、誰でも届け出なしに為替取引ができるようになりました。
日本版金融ビッグバン以降の為替市場は、「ショック」と呼ばれる市場の動揺が繰り返されています。
以下はそれぞれのショックについて説明します。
LTCMショック
1998年10月7日、8日の2日間、米ドル/円は急落しました。10月6日の終値が130・05で、7日の安値が118・80、8日の安値が111・45なので、2日で一時約20円も下落したことになります。
原因は米大手ヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)の破綻でした。
LTCMは、運用チームにノーベル経済学賞受賞者らを集め金融工学を駆使した運用を行い、1994年の設立以降、好成績を収め世界中から資金を集めていました。
報道によると、LTCMのデリバティブによって積み上げられていた金額は1兆2500億ドル(約170兆円)と過去に例を見ない巨額なものでした。
しかし、1997年に起こったアジア通貨危機以降、大きな損失を出すようになり、運用は破綻しました。
LTCMの破綻にともない、為替市場に積み上げられていた巨額の米ドル買い・円売りのポジションが巻き戻されるのではとの思惑などから、市場に米ドル売り・円買いの取引が殺到し相場が大きく動いたのです。
リーマン・ショック
2000年代前半の米国は住宅バブルに沸いていたことを、覚えている人も多いと思います。
ITバブル破裂後の経済回復をめざしFRBが低金利政策をとっていたことに加え、急成長するアジア諸国などから米国へ投資資金が向けられていたためです。
住宅バブルを助長したのがサブプライム・ローンです。
サブプライム・ローンとは、クレジットカードの延滞を繰り返す人や過去に破産した人など信用力の低い個人を対象にした住宅融資のことで、これは証券化商品となり、世界各国の投資家に販売されていました。
サブプライム・ローンにより住宅投資が増加し、それは住宅価格を高騰させ、さらに高騰した住宅を担保に借入を増やすという典型的なバブルが出来上がったのです。
しかしこのバブルにブレーキをかけたのがFRBの利上げでした。
FRBは2003年7月以降、政策金利を1%に据え置いていましたが、2004年7月から利上げを開始し、2年後には5%台となっていました。
これにより住宅価格は下落に転じ、追加担保の差し入れに応じられない債務者が増加したのです。
こうして2007年には米住宅バブルが崩壊し、欧米においていくつかの金融機関が経営危機に陥り、米国も例外なく2008年9月15日全米第4位の投資銀行であるリーマン・ブラザーズが経営破綻するのです。
同日に第3位のメリルリンチも経営危機が伝えられ、翌16日は全米最大の保険会社AIGの危機が伝えられましたが、メリルリンチはましたが、バンク・オブ・アメリカが救済合併に応じ、AIGは直ちに米政府が融資に応じたため、現在でも会社存続ができていますよね。
リーマン・ブラザーズや、メリルリンチ、AIGなど軒並み大手が経営危機を迎えたのですから、例外なくその他金融機関の危機が次々に伝えられましたが、それぞれ救済合併や政府による救済が実行されました。
これらの動きは、きっかけがリーマン・ブラザーズの破綻であったため、リーマン・ショックと呼ばれています。
一連の動きの中で米ドル/円は売られ、リーマン・ブラザーズ破綻直前の107円台から約1カ月後には97円台、そして3カ月後の12月半ばには87円台まで下落しました。
一方で、意外な動きをしたのはユーロ/米ドルなど米ドル/円以外の通貨ペアです。
破綻直後の1週間こそ米ドルが売られましたが、その後は米ドルが大きく買われました。
米ドルの上昇は対ユーロだけではなく、円以外のほとんどの通貨に対して見られ、通貨の全体的な強さを見るインデックスにおいて、米ドルはリーマン・ショック直前と比べて2カ月後には12%上昇していました。
これは、世界中の金融機関が決済などで使われる米ドル資金をできるだけ手元に置いておこうとした結果、自国通貨を売って米ドルを買う動きが活発化したからです。
その中で円だけが強かったのは、LTCMショックのときと同様に、それまで市場にあった米ドル買い・円売りのポジションが巻き戻されたこと、日本の金融機関や投資家がすでに米ドル資産を潤沢に保有しており、自国通貨を売って米ドル買いをする必要がなかったことなどが理由として考えられます。
なお、米国サブプライム・ローン問題、リーマン・ショックによる世界的な金融危機への反省から、再発防止に向けて幅広い分野で金融規制が強化されました。
それらは銀行の自己資本比率規制や店頭デリバティブ規制改革などに及んでおり、現在まで続いています。
スイス・フラン・ショック
2011年は米国債の格下げやギリシャの財政粉飾発覚に端を発した欧州債務危機などから、金融市場を取り巻く状況は不安定なものとなっていました。
このような環境下、米ドルやユーロを売って、安全資産とみなされている円やスイス・フランを買う動きが活発化します。
特に、財政状態が比較的健全であったスイス・フランの値動きは大きく、同年8月末の時点で前年末から対米ドルで14%の上昇となっていました(同期間中、円は対米ドルで6%上昇)。
通貨の上昇は製造業や観光業に打撃をもたらしたため、スイス国立銀行(中央銀行)は8月だけで3度の利下げを実施するなど度重なる金融緩和でスイス・フラン高に対抗しようとしましたが、効果は限定的でした。
9月6日にスイス国立銀行はスイス・フランを押し下げるため、1ユーロ=1・2スイス・フランの限度レートを設けて無制限にスイス・フラン売り介入を実施することを発表しました。
その結果、発表前のユーロ/スイス・フラン相場は1・10台での取引でしたが、無制限介入発表後はその日のうちに1・22台まで動き、なんと10%以上のユーロ高・スイス・フラン安となったのです。
そしてこのスイスの通貨政策は、日本経済にも少なからず影響を及ぼしたのです。
それまで米ドルやユーロを売って円やスイス・フランが買われていたと説明しましたが、スイス・フラン高が政策的に抑制されてしまったため、買いの矛先が円に集中したのです。
この結果、米ドル/円はその後大幅下落となり、同年10月31日には75・31の戦後最安値をつけるに至りました。
その後のスイス・フランは比較的安定した動きが続きましたが、2014年12月にドラギECB総裁が欧州景気の低迷を背景に量的緩和策の導入を示唆したことからユーロの売り圧力が高まりました。
また、原油安などを受けた新興国通貨の下落は、結果としてスイス・フランの上昇圧力となったのです。
2015年1月15日、スイス国立銀行はそれまで設定していた対ユーロでの限度レートを撤廃すると発表しました。
ヨルダン総裁は、「国際情勢の変化から持続可能でないと判断した」と語ったように、市場の流れに抵抗して介入を続ければ、ユーロ建て資産の含み損が膨らみ、中央銀行としての健全性を損なう恐れがあったことが政策変更の要因として考えられています。
このスイス国立銀行の通貨政策の変更は、スイス・フランの急騰をもたらし、な、なんとユーロ/スイス・フランは限度レートの1・2000から10分あまりの間に0・85台まで約30%の値動きとなる有様だったのです。
通常であれば流動性の高いスイス・フランのような主要通貨が、このように短期間に大幅に値が動いた例は過去になかったため、一連の動きは「スイス・フラン・ショック」またはスイス国立銀行の頭文字をとって「SNBショック」として市場参加者の記憶に刻まれることになりました。
Brexitショック
2015年ごろからEUの負の側面が目立つようになりました。
英国においては、ギリシャなど財政が悪化した国を救済するための負担に対する不満や、中東や東欧からの移民が英国人の雇用を奪っているという考え方から、EUに対する不信感が高まっていました。
もともと英国民のEUに対する依存度は低く、ある機関の調査によると、「あなたはEU市民であると感じていますか?」というアンケートに対して「YES」と答えた人の割合は53%だったといいます。
これはドイツやフランスなど他のEU諸国と比べて低い数字です。
キャメロン首相は、英国がEUを離脱することの是非を問う国民投票を実施することを2015年の総選挙の公約としました。
英国のEU離脱をBrexitといい、これは「Britain=英国」「Exit=出る」から造られています。
2016年6月23日に国民投票は実施され、事前の世論調査では、EU残留派が離脱派を上回っていたため、金融市場はEU残留決定を織り込んでいました。
しかし結果はEU離脱派が過半数を獲得し、Brexitが現実のものとなったのです。
国民投票は日本時間の6月24日午前6時に締め切られました。
その後、地域ごとに開票作業が進められましたが、離脱派が優勢となると英ポンドは急落し、開票開始時点で1・5000近辺だった英ポンド/米ドル相場は、昼過ぎには1・32台へと下落する結果となるのです。
なんと約12%の下落です。
なおこのとき、米ドル/円は106円台後半から103円台前半へと約3%の下落となる事態となりましたが、それ以降も英ポンドは軟調かつ不安定な展開となりました。
Brexitと直接関係はありませんが、同年10月7日に英ポンドは数分のうちに9%急落する「フラッシュ・クラッシュ」という値動きを見せています。
英国民投票以降、英ポンドの流動性は低下しており、今後もこのような急激な動きが発生する可能性は十分あるので、為替相場においても細心の注意を払う必要があります。
為替相場の歴史とチャートの軌跡を追ってみて
このように経済の歴史はダイレクトに相場の動きへと流れていることがわかると思います。
今回は少しかたいお話になってしまいましたが、為替チャートは歴史の縮図とはよくいったもので、特にプラダ合意から日本の経済と為替レートを突き合わせつつ見てみると、面白いですね。
いまはイケイケ相場で株高円安ですが、ちょっとした世界情勢の変化、日本を含めた経済指標の数字一つで、為替相場は大幅に上にも下にも振れることがあるのです。
私たちがポジションをとっているときに、いつ何時リーマン・ショックのような有事に見舞われるかわかりませんし、また見舞われた時は全財産を失うだけでは済まない事態に巻き込まれる可能性だってあります。
世界を相手では私たちトレーダーが多少の金額を保有していたところで、太刀打ちはできないのです。
これらの振れ幅を頭の片隅に置きつつ、世界に飲み込まれないように気を付けつつ、相場に手を出すようにしましょう。